「Planet Fukushima」 statement
私は福島第一原子力発電所から北西に約60kmの距離にある伊達市の出身です。このプロジェクト
は震災から12年の歳月をかけて制作したものです。その過程で着目したのは、震災後の福島における
独特な空間と時間の流れです。
空間については、たとえば風景を撮ろうとするとき、目の前の広がりを断片化した層の連なりで意
識するようになりました。なぜなら山や川、田畑や人間の居住区など、それぞれ線量が異なることか
らそうした感覚に至ったのだと思います。かつてはひとつの広がりとして同時に存在していたもの
が、放射能という異物によって分断されてしまったのです。いくつもの断層がカメラの前に縦列状
(まるでフォトショップのレイヤーのよう)に連なるそんなイメージが常に私につきまとっていまし
た。
また時間については、人々の記憶に焦点を当てました。大惨事の記憶というのは人間のそれまでの
記憶を再編成させ、さらに未来の出来事もそれを起点として形作られていきます。その生成過程で順
序(時間軸)があやふやになり、また内容がいくらか変更になったとしても不思議ではありません。
津波の被害における復興事業着手はほとんど災害と同時的なものであり、時間の進行が目に見えて
確認できる一方で、放射能汚染ついては広範囲なうえ政府の方針の曖昧さゆえに時間の歩みは低速を
極めています。さらに放射能の半減期という圧倒的な時間の長さを突き付けられたあとでは、本来私
たち人間が持っている時間の感覚に何かしらのゆらぎが生じるのは必然であるように思います。方射
能という無機物が有する時間の進みはひどくゆっくりと感じられ、しかし逆に放射能の側からみれば
人間が性急ということになるのでしょうか。そのあまりに膨大な放射能の時間の前にあっては刹那を
生きる個々の人間が保持する記憶の重要性など、脆弱で取るに足らない些細なことのように思えてし
まいます。
福島に流れる儚くもとらえどころのない時間と断層化した空間のイメージは、目にも見えず臭いも
なく、熱くも冷たくもないという放射能の特性に起因するところが大きいでしょう。その皮肉な透明
性は、確かな現実味のないものとしていまだに私の周りに存在しつづけています。
写真集「Planet Fukushima」について
写真家の菅野純は福島県伊達市の出身であり、本書は東日本大震災以降の福島を彼女が12年に渡って撮影したものです。
「Fat Fish」パートと「Little Fish」パートの二部構成になっており、本編である「Fat Fish」パートでは福島に流れる不確かな時間と複雑な空間の広がりを表現しています。また「Fat Fish」パートで撮影されたそれぞれの場所では、線量を計測するガイガーカウンターの写真を日付入りのコンパクトカメラで別に撮っていて、それが「Little Fish」のパートで展開されています。両パートは別々に見ることもできますが、それぞれのページはリンクしていて、広げると4枚の写真を横一列(106cm)で同時に見ることができます。
震災以降、彼女は目の前の空間をいくつもの分断された層の重なりで捉えるようになりました。例えば山の前に人が立った写真を撮ろうとした時に、遠くの山からカメラに至るまでには、畑や川、アスファルトの道路や人間の居住地など様々な場所があります。ガイガーカウンター で測定すると、それぞれのエリアごとに線量が異なっていました。つまり線量の相違が空間の分断を彼女に意識させたようです。まるでフォトショップのレイヤーの重なりのようで、震災以前のように目の前の景色を一つの空間として見られなくなったと彼女は言います。
そもそも「Fat Fish」とは、彼女がいつも定点観測をしている広大な放射性廃棄物の一時保管場所(仮置き場)のことで、上空から見下ろすと外形が魚と似ていたために、彼女自身が名付けものです。あたかも津波で海から流されてきた巨大な魚のようだとも彼女は言います。「Fat Fish」パートには、その仮置き場や同じ人々のポートレート、また移りゆく福島の風景が何度も繰り返し登場します。しかしそれぞれの時間軸は決して一方向に進んではいません。それは放射能の半減期という時間的観点からみれば、人間の命はあまりに短く、そうした人間という有機体が保持する記憶のはかなさを彼女は問うているのかもしれません。しかし一方では線量計という小魚たちが泳ぎ回る「Little Fish」パートでは、「Fat Fish」パートの分断された空間とあいまいな時間軸をただ淡々と記録しています。
両パートをひとつの本として纏めることは、創造性と記録性というある意味では相容れない表現方法において彼女が最も苦心した点でした。しかし「Little Fish」パートを導入することは、茫漠とした福島の時間と空間を確固たる実体として再び自分の中に呼び戻そうとする必死の試みでもあったのです。
追記としてその二つのパートのネーミングにはもうひとつ裏の意味があり、第二次世界大戦時のマンハッタン計画で広島と長崎に投下された原爆「Little Boy」と「Fat Man」にもなぞらえてもいるようです。
「Planet Fukushima 」ー写真集あとがきより
相馬から実家のある伊達市を目指して車で走っていたのは2015年の最終週、29日か30日あたりだったと思う。いつもは除染関係の車両で騒然とするこの国道115号線だが、年末年始の休みに入り行き交う車もほとんどなく、山間をひっそりと蛇行するかつての峠道に戻っていた。寡黙なカーブの反復はさして 楽しくもなかった海辺への家族旅行を思い出す。後部座席に座り、バックミラー の父と死んでも目を合わせないよう努めながら不規則にかかる横Gにひたすら耐えていた中二病まっさかりだった私。季節は違えど懐かしい。
慣れない運転は少しばかり心ぼそく、すでにこの日は午後も遅い時間だった ので、暗くなる前に山を越えてしまおうと、ナビが示すとおり近道の細い横道に 入った。その途端に大量のフレコンバッグが前方に見えてきて、反射的に車から降りてカメラをかまえた。ところが24mmの広角だったにもかかわらず全景が おさまりきらない。そこで近くの山に登ることにした。道無き道に等しい頂上までの道のりは思いのほか険しかった。途中で熊鈴もなにも持ってきていないこと に気づきはしたもののその時すでに8合目あたりで、いったい人間という生き物 は自然を相手にいつからこんなに楽観的になったのかと、都会に慣れきった自 分の愚業がそら恐ろしくなる。だからといって引き返すこともできず、とにかくただただ冬眠中という言葉を信じて登るしかなかった。
その登り斜面はフレコンバッグ置き場からは反対側にあり、到着と同時に眼下 の眺望が明らかになる。それは山深い秘境に君臨する巨大な帝国のようだった。 街並然とした碁盤目状の連なりはどこか北方の古代都市を思わせ、その緩い区 画割は家々の隙間を這う迷路のようでもあって、そこかしこから夕餉の煙が立ち上っていてもおかしくない気がした。白いフェンスで囲まれた奇妙な輪郭はなに やらとても意味深で、薄らと雪の積もった細かなフレコンバッグの粒々が、そのうち魚の鱗に見えてきたりもする。その日からその場所を「Fat Fish」と呼び習わし、 私の新たな歩哨生活がはじまった。
福島の各地で除染作業が進むにつれ、2014年あたりからかつてない新たな 光景を目にするようになる。放射性廃棄物の「仮置き場」である。そこは除染で 除去した土や草木を遮蔽性のあるフレキシブルコンテナという大きな袋(1m³)に詰め、防水シートなどで覆って保管しておく場所だ。町を見渡せば青や黒のフレコンバッグ(通称)が溢れ返っていて、やがてそれが当たり前の景色になった。 それまで形をなすことのなかった放射性物質が皮肉なことに仮置き場の存在によって初めて可視化されたということになるのだろうか。
ある村ではその「 仮置き場」の他にもう一つ別の呼び名がある。2016年2月 だったか、その村に問い合わせの電話をしたことがあり、「〇〇の仮置き場につ いて質問が...」という私に、電話口からは「ああ、〇〇の仮々置き場だない」と普 通に返ってきて、それが会話の中でことごとく言い直してくるものだから、思い 切って訊いてみれば真相はこうだ。海側に設置された中間貯蔵施設はあくまで仮に置く所だから、そこをそもそもの「仮置き場」とし、地元にあるのはその「仮置き場」に持っていくまでの間のあくまで一時的な場所だから「仮々置き場」と呼ぶことに村で決めた、というものだった。その村の除染は地区ごとに分割して行われていて 、フレコンバッグが ある程度の数になったら村所定のその「 仮々置き場」に移動させる。しかしそれまでの間はそれぞれの地区で保管することになる。ということは 、村の「 仮々置き場 」に持っていく前の段階の (つまり海側の「 仮置き場」からすれば前々段階の)、その地区ごとの保管場所はいったいなんと呼べばいいのか? という私の問いに「まあ...仮々々置き場だない」と担当職員。
当時はそんな「仮々々置き場」や「仮々置き場」、あるいは「仮置き場」が大小様々 な形を呈しながら海側から内陸に向けて相当数散在していた。そこに住む人々の「仮置き場」に対する希望的定義が反映されてのこととは重々承知している が、言いにくそうに「カリカリ、カリカリ...」と何度も繰り返すのを聞いてなかなか 役所の勤めも大変だなと思った。
およそそこから遡ること5年前の2011年3月。福島第一原子力発電所の事故 により福島の各所に「ホットスポット」と呼ばれる空間放射線量が非常に高い地 点ができた。水素爆発で放出された放射能物質が「放射能雲(プルーム)」と呼ばれる状態となって発電所の北西方向(内陸部)に流れ、その時雨が降ったこと が被害を大きくした原因である。その汚染範囲は広範囲に及び、特に私の実 家のある伊達市(福島第一原子力発電所から北西に約60km距離)では、完全な避難指示区域にはならないまでも特定避難勧奨地点(事故発生後1年間の積算線量 が20mSvを超えると推定される場所)が2011年11月までに117箇所設定され、そ こでは特に妊婦や子どものいる場合に、市町村を通じて避難を促すなどの措置 が取られた。そうした特定避難勧奨地点をはじめとして、我が町、伊達市の多 くの人たちが自主避難を余儀なくされ、当時、2012年4月までに1003人(387世 帯)が市外に避難した。そしてそのうち273人(102世帯)がいまだに他の場所で 生活を送っている(2022年5月31日現在、伊達市に問い合わせ)。
私が震災後初めて実家に戻ったのは2011年の5月初旬で、その時はまだ事 態の深刻さをうまく呑み込めずにいたように思う。放射能といえば戦争や爆弾と いったもの以外で意識したことはなかったし、その知識も曖昧で、まして臭いも なく目にも見えないという物質の特徴は想像してもなかなか理解できなかった。
実家に電話すると「このあたりは大丈夫だぁ」という母親のなんとも呑気な声 が返ってきて、思わず拍子抜けしてしまったほどだ。それはそうなのだろう、裏 山ではツクシや筍が頭を出し、目の前の畑には小松菜やホウレン草が青々と育っ ていただろうから、そうした春野の見た目なにも変わらない例年通りの光景を見 て、期待半分、自分への言い聞かせ半分でいつもより少しだけ声を張る当時の母親の心境は容易に想像できる。
そして私は私で津波の被害が大きかった海側(浜通り)を訪れてからの帰省 だったから、こちら内陸部(中通り)の家々の屋根を覆うブルーシートや幅が30~ 50cm程度の道路のひび割れを見たとしても、そう驚くわけではなかった。だか ら復旧して間もない阿武隈急行というローカル線に乗り込んだ時に、あまりにも 目に馴染んだ外の景色はいつもどおり親しげで、TVのニュースで見たような切 迫した事態が窓の外で繰り広げられているとは到底信じがたかった。
座席に座って、いつものゴトンゴトンという心地よい電車の振動とともに萌黄 の木々を無心で眺めていた。昨日までの世界がまるで嘘のようだった。外は雨 が上がったばかりで濡れた葉っぱが瑞々しく車窓を流れていき、薄らとした陽光 が車内を満たしていた。扉の前では長靴をはいた老人が手すりに掴まって降車待ちをしていた。頭頂にわずかに残された白髪が扇風機の風にふわふわと揺らいでいて、その時とつぜん強烈な脱力感のようなものを覚えた。それは今 は亡き祖父の姿と祖父が切り拓いた山林の景色が目の前の光景と重なった瞬 間だった。さらにその視覚体験は外界と分断された決して扉の開かない未来の 電車を暗喩しているようにも思え、見慣れた景色がひどく違ったものに見えたこ とを今でもよく覚えている。
その帰省の日から数日後、生産が追いつかず長らく待ちわびていた線量計がやっと手元に届くとともに事態の深刻さを身を以て味わうことになる。やがて 私の視界にはなんとも奇妙な変化が生じ始めた。近景、中景、遠景という3つ の層が形成されたのである。それは3つの異なる次元といっていいかもしれな い。たとえば目の前に人がいて遠くに山があるとする。その両者はかつて同じ 空間に一緒に、そして同時に存在していたはずだ。しかしこの事故をきっかけ に手前の人(近景)と遠くの山(遠景)の間には放射能という異物(中景)が入り込 み、両者は分断され、まったく別の次元と化してしまったのだ。いつからか人(近 景)とカメラのレンズの間にある接景という層も新しく加わり、いってみればフォト ショップのレイヤーのような層の重なりで目の前の空間を意識するようになった のである。そこで線量計の数値が思いのほか高かったりすると、(バリアのつもり だろうか)レンズから後ろの、つまりカメラを含めた自分のいる空間がまた一層増 えるとともに、気がつけばそこから後のさらなる広がりが背面を圧っしてきたりも する。地形やロケーション、また対象となる被写体の立ち位置、そして線量の高 低などによってもその層の厚さや数は様々だが、カメラを構えながら、モニター の画面のあの何層にも積み上げられたレイヤーのひとつに、まるで自分も入り 込んでしまったかのようでどうにも居心地が悪かった。
近くには阿武隈水系の支流である広瀬川という川が流れていて、ちょうど実家の手前あたりで大きくカーブし幅50mほどの瀬になっている。そこに架った橋 の上に立って水の音を聴いていると、懐かしい子ども時代がよみがえる。この 浅瀬でよく水遊びをした。そして川の向こうには祖父の杉山があり、当時昼食 をとりに山から降りてくる祖父の姿を見かけてはその後にくっついて一緒に家に戻ったものである。
幸運にもというべきか、祖父は震災を経験することなく20年ほど前に他界し た。もしも祖父が生きていたらこの震災をどう受けとっただろうと思うことがよく ある。とにかく雨でも雪でも土地を耕した。温和で辛抱強く、そして何故なのか いつも愉し気だった。戦後、大規模なエネルギー革命とともに町が近代化して いき、さらにガスや電気がこの小さな村にまで普及したことを祖父は嬉しく感じ たことだろう。小児麻痺を患い片足が不自由だったからデコボコの山道に分け 入る四輪駆動車を頼もしげに見守ったに違いない。そしていよいよ大きく成長し た木々を伐り出すときの軽快なチェーンソーの響きをどれほどの思いで聞いただろうか。その山は震災から手付かずのまま放置され鬱蒼とした荒れ山となって しまった(山は林縁から20mまでしか除染しないのだ)。道には雑木や熊笹が蔓延っ て、祖父が育てた山林まではもう行き着くことはできないだろう。遠くから見た だけでは何も変わらないけれど、山と私の間には目には見えない透明な空間が 音もなく横たわっている。川の流れを前に静かに目を閉じれば、あっち側では斜 めに身体を揺らし山を登っていく祖父の姿が濃い葉蔭にちらちらと見える。
この10年、たくさんの人々に出会って思ったことは、人によって時の感覚が違 うということだ。速かったり遅かったり、切れ切れだったり、あるいは一挙に溯 行して震災以前に戻っていたり。たとえば津波の被害が可視化できる沿岸部と放射能被害が大きい内陸部というように、その被害の種類や規模によっても人々 の時間の感覚は異なってくる。大人と子どもの差も大きい。また就いている仕 事によっても違ってくるだろう。もちろんそれは福島以外のどの地域の人々にとっても時の概念、そして震災に対する想いは個々に違うのは当然のことだ。ただ 福島という空間において、その目に見えない異物の存在は、人間が持つ本来的 な時間に対する感覚に何らかの変化を(一時的にでも)及ぼしたことは間違いないような気がする。
中景を境とし、そこに付随するいくつものレイヤー。そして偶然出会った「Fat Fish」という上からの新たな空間。それらは分断され孤立したまま、なんの規則 性も持たず、それぞれがばらばらに時を刻んでいるように私には思える。